わたしは
ワタシクリエイトの世界観の
わりと大事な一つ
あなたはわたし
という
禅的な哲学では
空くう
という概念を採用して生きてきました
どうしてひとは違うことを許せないのか?
とか
どうして人は本来繋がっているあなたを
そんな風に切り離せるのか?
という世界は嘆きは多いけれど
誰をも自分自身にもあるあなたという感覚で内在内包され豊かでした
繋がっているからこそ
自分さえ良い世界を卒業して
マナ識という潜在意識をクリアにすることが
行として、日々を支えるのです
まさにroomのコンセプトが
この現代の行なんだと思います
私を生きる習慣を身につける事がそれにあたる…
わたしがわたしになる
を解像度を高めれば高めるほどに
あなたはわたしである
に近づく…
あなたとわかり合い分かち合いたい
が増すのです
ここからが疑問❓と嘆きです
でも最近ね
アトリアに訪問してくれるかたが増え
内的世界を掘るのは怖い
嘆きを対話するのはしんどい
疲れた
と言われるシーンがあり
私は私を生きる道の歩みを
いま、立ちどめています
私による嘆き
私による相手が怒っていることを沈めるのに
対話的にやり取りを諦めない姿勢と
そこから何が二人にはチームには今必要だったかを
見出すこと、この誰もが因果であるあり方が疲れる
辛いのであれば
それは、私にあらためて欲しいのかなと思ったのです。本心は諦めたくはない、でも疲れるから改善したい…と言われたら、諦めるしかない。
今、私の信念を手放して生きるか迷っています。
この指針を無くしたら
コロナ禍で強く信頼できた依代である世界観の一つを失い私は生きていけるのかな?
愛する人が増えるたびに
譲るもの手放すものを見直してていく事は
非常に苦しい😣