昨日は参宮橋アトリアで、夢見る小学校を観た。

フラットに座って観はじめたのに、10分もしないうちにじわじわ内側から静かに攪拌が始まり、ほぼ時間中ずっと涙がこぼれてた。

子育てにまつわること、自分が育ってきた学校環境、PTAにがっつり関わっていた頃の闇と光の時間、ありとあやゆるものが想起されて時には嗚咽レベルまで。なんとかスクリーンがぼやけないように拭うのがやっと。

学園や学校とは、人の形成に大きな時間を費やす時空間で
当たり前だが、関係性の基礎が養われる場。
そんなことは誰でもわかっている。
しかし、それ以前に、大人が人間という自分を信じることを忘れているならば
その関係性は最初から歪に養われてしまわないとも限らない。

ヨガでは人は完パケで生まれてくるというのが大前提。
パーフェクトなワタシという種[seed]は全てが既にそこに内在しているのだ。
スクリーンでは、その各々に異なる種[seed]たちが
まさに滋養に溢れた土で自由に躍るように芽吹いていた。

自由には責任が必要、という理論はここでは通用しない、
堀学園長が確信に満ちていう。ここでは責任はぼくたち(おとな)がとる。

紋切りに教育学を振りかざすことのない、真の自由を
まずは”おとな”が真摯に謳歌しているように思えた。
そして自由に必要なのは信頼なのだ。
期待ではなく人間という存在への圧倒的な肯定。
そんなことを体現し実践されている姿に
魂は嬉しく動かされる。

そうやって終始流れ続けた涙
それはしょっぱくはなかった。

過去はちょっと訪れるのはいいらしい。そこに住まわなければ。

そしてその過去の自分への氣づきは、あまり好きな言葉じゃないけどてらいなく言わば今一番しっくりくる
”癒される”ということに他ならない。

そのプロセスがあるからこそ、本当のワタシの一歩が踏み出せるし
流れよく思考もスムーズになる。
さらには覚悟なるものができれば
その部位は強靭さをも生みだせる。

あらたにヴィジョンがルクスをあげて見えてきた。
涙が甘く感じられたのはそのせいかもしれない。

鑑賞後すぐにアンケートは珍しく書けなかったけど、それも
癒された時間をもう少し味わっていたかったからだろう。

こどものいる人もいない人も
社会に生きている人すべてに見てもらいたい作品✨

※感動で声を詰まらせながら(頻度高い🤣)こんなかけがえのない場 Atlyaをホールドし続けるさわこしはじめ、行政の場に身を置いて教育問題に全力で取り組むまちこさん、そのあとの墨遊びをプロデュースしてくれたマルチに活動される育子さん、ありがとう♪